あんりの感想記録

めちゃ遅で昨年開催された大野智の個展のレポートを提出させていただきました。

FREESTYLE 2020 レポート(あんりの感想文)

序論
 自分の美術史学を総動員して、大野智の作品について論じる予定だった。。。それがいつの間にか自分主観の感想文に。。。いつかちょっと正式なところにでも出せるくらいしっかりした論文にしたいと思ってた時期もありました。諦めた。これは私の記録。
 しかし、記録であると言いながら、私のこの感想は大野智の作品を美術史に加えたいという(若干どころじゃなく壮大な)願いが込められている。ますます読みにくいね!あとブログって初めてだからあったかい目で見てください。

 大野がそれぞれの作家や作品を知っているかどうかはともかくとして、これだけ様々な作風があるんだという参考になれば嬉しい(画集のインタビューの中において「ネットで調べたりした」「伊藤若冲」という言葉が出てきたので、いくつかの作家の作品から知らず知らずのうちに影響を得ている可能性は高い。さらに、前の作品集では奈良美智草間彌生から影響を受けていると明言していたため、今から私があげる作家にインスピレーションを与えられた可能性は決して低くないと考える。あとファンクラブの会報でも展覧会行ったりしてたかな)。
 なお、私自身まだまだ知識の浅い未熟な部分も多く、見当違いなこともあるかもしれないが、これはあくまで個人の考察であることをご承知おき願いたい。そして、毎夜毎夜継ぎ足ししてるため内容の質はもちろん日本語としても読みにくいものになっているが、そこもご容赦願いたい。

 私の記録を全て書いてみたらとんでもない量(約7000字超え)になった。この全貌はあくまで私の記録であって、皆様のお役に立てる部分は非常に少ない。しかし、皆様と共有したい情報はたくさんあるため、最初にあらかじめ要約したものを置いておく。最低限伝えたいことはこれだけである。
・抽象画における厚みと塗り重ねの独特さ
・新作の作品において「縁」がよく見受けられる
・影響を受けた作家や作品として挙げられるもの…ジャクソン・ポロックのドリッピング手法、ゲルハルト・リヒターの「画面の絵具を削る」行為、etc
・展示方法で仮設壁として使われていたクレート(木箱)は、普段大野が作品を保管するのに使っている。

 特に!強調したいのが!!!クレートのやつ!!!展示構成でクレート使うとかおしゃれんすぎん?!監視員さんに「これは本当に使われたものですか」って聞いちゃって困らせました。この場を借りて懺悔します。でも一応ヤマトのシールあったしもしかしたらガチで輸送に使ってるやつかもしれん。ただ、これで運ばれてきたかどうかはともかくとしてこのクレートに普段から作品が保管されていることは教えてもらったので!いやあ今思い出してもテンション上がるね、真似したい…あんな展示やってみたい…

 

 本論のメイン会場の前に、カフェについて語らせて欲しい。私はメイン会場に行く前にカフェだった。全てはここから始まる…

(え!?ドリッピング!?ポーリング!?アクション・ペインティング!?なんでどうした!?ガラス面の作品画像がジャクソン・ポロックのDIC川村記念美術館にある作品と色遣い一緒やないか!?かろうじてサイズ違うけどさ!?何よりなんで抽象画?!え、あなた具象画じゃないの?!それも細密画!なのにいきなり画風変わると私ついていけんよ???は?何があったの???)

 勝手にパニックになって同行してた安定ちゃんを困らせてしまったのめちゃくちゃ申し訳なかった。にわかポロック信者なので急に大野智が抽象画にいったことに動揺を隠せなかったんだろうな…落ち着け私。
 とにかく、具象しかも細密が大野の作風のイメージだった私としては、ガラリと代わった雰囲気に驚きを隠せなかった。ああいった抽象表現主義の作風がやってみたくなった大野智の心境が気になっていた。

 初っ端の始まりでこんな感じだったのでその後、日を置いてからメインとなる展覧会会場に入る前は謎に(無駄に)緊張していた。では、本論に移ろう(急だな)。

 

展覧会 メイン会場
 最初に一言述べさせていただきたい。私は大野智を1人の現代アーティストとして尊敬している。それは、作品に込められた想いや意図はもちろんのこと、作品自体の美的価値や表現の独創性も現代美術作家として十分にクリアしていると思うからだ。だからこそ、カフェのガラス面にデザインされた抽象画を見た時に、「ジャクソン・ポロックの作品をまんまやってる…?!」とショックを隠しきれなかった。「真似している」という独創性からはかけ離れた印象を抱いてしまったのだ。
 例の作品はドリッピング手法を使っていると思われるが、これは何も考えずともやってみることはできる。どうやって美術作品として成立させるか、その要因の1つには「最初にそれを思いついて実行し制作して作品として発表すること」があげられる。実際、ポロックの作品は「カンヴァスを床に置いて制作した」点において評価を受けている部分もある(しかしながらポロックの作品に関しては適当にやってるように見えて計算し尽くされてるからね。そこら辺誤解しないでね)。ならば、大野智のこのカフェのガラス面に貼られた作品は、大野智の独創性ではなく、単に真似しているだけなのではないか?あの誰もがわっとなり魅入られて細部まで全て余さず見たくなるような具象的な作品はどこにいったのだ?
 しかし、この疑問は展覧会での作品を見て私なりに折り合いがついた。過去の画集を含め3冊をさらっと読んだこともあり、描く目的や対象が見つかっていなかった大野が抽象画に向かったことも納得できた。抽象画によって、描くことの自由さを新たに発見したのではないかと思う。まさしく、FREE STYLEである。

 

抽象画:質感と塗り重ね
 抽象画というのは、読み取ることが難しい。描いたものよりも「制作行為」自体や「質感」が批評や評価の対象となっている作品も多いことが理由として挙げられる。私自身の抽象画の好みも「絵具の質感」や「キャンバスの上に厚みがあること」だ。この観点から見ると、大野智の新作の抽象画には、部分部分で「質感」を主とした様々な技法と、美術史的美的価値を備えた部分が多々あった。
 「質感」を一番感じた部分は、素材の使い方である。そもそも、ペンキやアクリルは油絵具より流動性の高い液体であり、乾きも早く扱いも簡単である。しかし、これらはあまり画面に厚みを作ることが難しい(私の数少ない制作経験より)。ここで、「アクリル樹脂」に着目したい。このアクリル樹脂は立体物の製作でも使われている素材らしく、画面に厚みを作ることを可能にする素材だと捉えている。そのためだろうか、大野の抽象画の何点かは、前述のジャクソン・ポロックのペンキによるドリッピング作品より厚みを感じた(ポロックのその他の画材による作品に関しては比較対象外とする)。厚みがあるからなんだ、と言われれば私の個人的な興味であるとしか言いようがないが、私が楽しいからいいの。というかそもそもそんなに厚みなかったかもしれないけどさ、

少なくとも私が見た何点かはあったの!!!

というわけで、論を進める。
 アクリル樹脂によってより厚みを作ることが可能になったことで、塗り重ねる楽しさが生まれる。これが、様々な抽象画に挑戦した作品量の結果だと思う。抽象画の作品が種類も豊富でたくさんあったことにおどろいた。単に色彩のみ変化させるのではなく、様々な表現があった。それは例えば陶器のような質感の部分やベタ塗りと線の塗り重ね方のパターンの違いなどが挙げられる。特に陶器のような質感は、絵具の流動性だけでなく表現の幅広さや探究心も感じられた。要するに、一口に抽象画といっても様々な物が生み出されていて、色彩はもちろんその他の面からもさまざまな違いがあって、それを鑑賞するのが私はものすごく楽しかった。
 また、塗り重ねる順番も面白い。細密画でも見られたが、最初に下地を塗ってから線画を描いているのかと思ったら、本展のメインピースだった細密画の大作は、最後に画面を囲む銀で余白を塗りつぶしていた(制作映像より)。余白の色(ここでは画面を囲む銀)を下地として捉えていたが、メインとなる中央の細密画のあとにわざわざ塗りつぶされたとしたら、意味合いが代わってくるのではないだろうか。つまり、ここでは「下地」ではなく「装飾」として捉えることができる。これは、このあと述べる「縁取り」とも関係しそうなので一旦おいておく。

 ところで、「削り跡」に気づいた鑑賞者はそれくらいいただろうか。これはあくまで私の敬愛する現代作家ゲルハルト・リヒターの近年の作品に見られる表現と似たことをしていたため個人的にとても興奮したのだが、「削る」という行為は必然的に画面から絵具を取る=「消す」行為とも取れ、引き算の要素がある。大野智の作品の中でペインティングナイフで削ったような跡があったのだが、これにどのような意図があったのか、とても気になった。質感としても下の色彩が見えるようになったり、より厚みを感じられるようになっている。この「削る」行為も質感というトピックにおいて取り上げておきたい。

 

縁どり
 そして何より、私は今までであったことのない新たな抽象画であることを発見し興奮した部分がある。それは、「置いた絵具をさらに黒で縁取っていること」である。少なくとも私の狭く浅い美術の知識の中で、あのような絵具の縁取りをしている作家は思い出せない。ここに、私は大野智の根底の作風である「細密描写」を感じ、無意識のうちに安心していた。わざわざ絵具を細かく縁取る芸当は細部まで気を遣っており、大野の繊細な表現力がひっそりと存在していたといえる。
 絵具をおいた場所をさらに縁取る行為に何か意味を見出すとしたら、私は「絵具の物質性を絵画としている」と答えたい。小難しい回答になってしまうが、これはつまり、「絵具というものそれ自体を一つの作品の要素としている」のである。絵具と絵画の歴史は古い。近代絵画までの絵画においては、絵画作品の画面に絵具の跡があることは言語道断で、絵具の存在は消すことが鉄則だった。それを変えたのがかの有名なエドワール・マネであり、そこから印象派を中心に、画面に絵具の筆跡を残す制作方法が主流となり始めた。前置きが長くなったが、ここで私が示したいのは、絵具を縁取ることで「絵具」という絵画において「手段」「素材」であるはずのものが「主役」「主題」となっていることである。絵具を素材の主役とした作品はあるが、大野のこの「縁取る」ことは、新たな表現方法として美術史に名を刻ませたい(誰目線)。

 ここから私は、「縁」に着目し始めた。すると、大野が意識してかどうかはわからないが、他の作品にも「縁」が見受けられた。例えば、前述の抽象画も、カンヴァスの側面ギリギリまで描かれていることは少なく、必然的に「縁」が生まれていた。そして、新作の細密画の大作でも、銀の絵具でメインとなる中央の画面が囲まれており、「縁」を確認することができた。そして、何より前述した絵具を縁取った抽象画もまた文字通り「縁」がみられる。
 逆に、 2020以前の作品において、カンヴァスの側面(=縁)は赤く塗られているものが多い。赤くなかったとしても、側面に何かしらの彩色が施されていることが多かった。ここに、大野の新しい表現を見出すことができよう。抽象画に関しては画面上に縁があることで描き込みが少なくなっている。側面まで手を加えていた以前の作品と比べると大きな変化である。いったい何があったのだろうか。ここに関しては、現時点での私の知識では読み解けないので、今後さらに考えたいところである。

 

パフォーマンス(映像作品)
 パフォーマンス作品というものは、鑑賞がとても難しい。動いているからこそ絵画より理解しやすいこともあるのだが、その動きが理解不能であると作品の理解も大変難しい。最後の映像の部屋に入る際には制作風景などのドキュメンタリーを想像していたのだが、予想を裏切り映像作品だったことに衝撃を隠せなかった。多分みんなそうだったでしょ。
 じゃあこれをどう評価するのか。いろんな視点があると思うけれども、単純に私は大野智が「パフォーマンス」に目覚めたことが嬉しい。あれだけダンスがうまいと「音楽」「エンターテインメント」に寄ってしまうところを、ちゃんと「パフォーマンス」に納めているうまいやり方と、なによりユーモアのかげんがいいよね。現代美術において「パフォーマンス」も立派なジャンルの一つとして捉えられている。要するに、大野智が現代美術ひいては美術の奥深さ、懐の深さに触れてそれを楽しんでいたのが純粋に私は嬉しかったのだ。推しには甘いのでもはや批評になってない(それ言ったら全部そう)。

 

タイトル
 最後に、もうひとつ議題をあげたい。タイトルがないことである。今日において私が眉を顰める作品は大きく二つあげられる。一つは《無題》《Untitled》といった題名の作品と、もう一つはキャプションにおける素材の欄の「ミクストメディア」という単語である。後者に関する愚痴は長くなるので割愛するが、前者に関しては本当に困る(誰目線2)。作品の区別つかないんだもん。私の敬愛する白髪一雄という作家は、海外で作品を売る際のラベリングとして作品に名前をつけなきゃならなくなった時、幼少期から好きだった水滸伝の登場人物の名前をそのまんま使っている。要するに、作品の区別の観点から私はタイトルが欲しいのだ。
 と、私個人の感想はまあ良いとして、もう一つの理由としては作品の読み解きがより深くなる場合があるからだ。怪物くんを自身の自画像として描いたあの作品はまだわかるが、それこそ抽象画がもし一点一点名前が付いていたとしたら、例えば明るい色合いの抽象画の作品に《夜》なんてタイトルが付いていたとしたら、我々はその作品の意味をより深く考えるようになる。逆に《昼》なんてタイトルだったらそれはそれでどこの風景なのかなと思いを馳せることができる。タイトルもまた、作品を構成する要素の一つであると私は思うのだ。
 そのタイトルをつけない、ここにもまた、大野のFREE STYLEな部分が見え隠れするのではないだろうか。本当に自由に、我々に好き勝手に見ろと委ねられているような気がする。それはそれで面白いなと思ってしまう私は甘すぎるのだろうが、まあいいか。タイトルがないからこそ、それもまた作品への興味を引き立てる、逆の意味で要素の一つとして成り立っているのではないだろうか。ただね、私はいつでもタイトルを待ってるよ。

 

ついでに
 ついでに書かせてくれ。
 同じビルにある森美術館では、「STARS展」と題して日本が誇る現代美術作家6名を紹介していた。そしてどれも、嵐さんにゆかりのある作家ばかり。
 草間彌生奈良美智はもちろん、杉本博司の映像作品は必見。なぜなら、5×20パンフレットの撮影地である江之浦測候所が映像の中で出てくるから。私はたまたま江之浦測候所をテーマとしたギャラリーの展覧会に行ったことがあり、その建築に行ったことないけれども大体構造を知っていた。だからこそ、映像で出てくる場所がメンバーがいたところであるとかわかって、とても面白かった。もちろん、映像作品なので杉本博司のパフォーマンスも面白い。ドキュメンタリー見たことあったけどお茶目なんだよなあ、時折ギャグ入るし、でも何より圧倒的知識量がすごい。
 これを見れば日本の現代美術はオールオッケーではないけれども、大変勉強になる素敵な展覧会だった。大野智の作品と現代日本が誇る芸術家たちが間接的に共演してたってすごいね、うれぴ(だんだん頭まわってない)。

終わりに
「描きたいものがない」という状態が続いていたと、今回の図録のインタビューで載っていた。今回こんなにも以前までの作品とがらりとかわった抽象画の作品が多かったことに、制作における素材への興味や、現代美術というジャンルの幅広さをもってこのような作品たちが生まれたのではないだろうか。まさしく、大野智の根源である”FREE STYLE”の部分は変わっていないのだ。
 最後に、私のこの展覧会全体の感想を述べたい。まずは、感染拡大防止観点からだろうか、順路がなかったことである。好きに見て回ることで密を防ぐ狙いが前から多くの展覧会で行われていたが、今回の会場の中間の展示においては、入り組んだ仮設壁が多く順路が欲しかった。見逃した作品があったのではないかと今でも少し心配になってしまう。
 展示構成がとても素敵だった。最初にも述べたがクレートを仮設壁とするアイデアは私にはなかったので、ぜひ参考にさせていただきたい。また、床の間を含む畳の部屋の空間は面白い構成だった。
 商業的な展覧会であったにもかかわらず、美術作品としての価値がしっかりとあるからこそ、意識して色眼鏡なしで鑑賞しても素敵な作品が多かった。
 昨年(くらい)のブロックバスター展に香取慎吾の展覧会が名を連ねていたが、私は今年の展覧会に「FREESTYLE2020」を入れたかった。それが叶わなかったのは本当に残念でたまらない。しかし、この展覧会が六本木ヒルズの、同時期には横の森美術館で「STARS展」という錚々たる現代美術家が並ぶ場所で、この時期に開催されたことは奇跡であると思い、アーティスト大野智はもちろんスタッフの方々には感謝しかない。素敵な展覧会をありがとうございました。
 いつか、いつかまた大野智の作品が見れることを期待して、そろそろ筆を置こう。今後の展望としては、もう少しちゃんと画集読み込んで美術史の知識蓄えてからもう一回考えます。ここまで読んでくださった方、お疲れ様でした。

 

【参考資料】(雑ですまん)

FREESTYLE これまでに刊行された3冊

ジャクソン・ポロック《緑、黒、黄褐色のコンポジション》1951年 家庭用塗料、エナメル塗料、カンヴァス、メゾナイト(硬質繊維板) 50.8 × 139.7cm